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てぃーだブログ › 批評特攻 at okigei

2012年02月27日

小林弘幸個展 展覧会評

小林弘幸個展作品<HOTHOUSE HABITANT>によせて


 風の寒い冬の日だというのに、温室に入ると暖かい。当たり前のことかもしれないが、小林の作品の第一印象は、そのはかないものへのまなざしを思わせる、柔らかなものだった。本作<HOTHOUSE HABITANT>は、小林弘幸の「個展」として沖縄県立芸術大学(以下沖芸大)の崎山キャンパスで発表される。崎山キャンパスは、沖縄県農業試験場の跡地に2011開設された沖芸大の新キャンパスだ。<HOTHOUSE HABITANT>(温室の住人)はその名の通り、旧農業試験場施設である温室を舞台とした作品である。

 小林は近年の制作のテーマとして「記憶の記録」を掲げており、思い出(記憶)を固定化(記録)しようとする試みを行っている。具体的には対象の思い出の場所から石を採取し、鋳造することで、記憶というあいまいなものを半永久的な記録にすることを目指している。その対象は自身の記憶、他人の記憶、そしてより集合的な建物(場所)の記憶へと向かっているようである。記憶を記録というかたちで保管、保存しようとする。この小林の博物館的欲望は、温室内部での作品にも見て取ることができる。温室の扉をくぐると、中にはアクリル、大理石、ブロンズそれぞれで作られた枝、また紙にプレスされた葉()が並べられている。それらは試験場の敷地や温室内部から採取した枝や葉から記録されたもので、さながら出土した石や骨のようであり、ここでは温室はひとつの博物館となっている。小林は、いままさに消えゆく(あるいはすでに消えてしまった)温室という場所の記憶を、場を象徴する枝や葉という形で、メモリアルに記録しようとしているのである。アクリル、ブロンズの枝は温室の内部から、大理石の枝は温室の外から採取するなど、温室の内外の差、人工空間としての温室という意識はあるものの、そこには明確な対立はみられない。個々の枝は、小林のはかないものへのまなざしの前に等価に扱われ、全てが意味を再び与えられ、記憶の記録を担うものとして機能するようになる。このニュートラルな記録こそ、「記憶の記録」という小林の目指すところなのかもしれない。消えゆく(あるいはすでに消えてしまった)場に留まる集合的な記憶に形を与えることで、再びそこに意味を与え、記録を試みているのである

 しかしその一方で、この作品は農業試験場の名残を読みかえ記述する、ランド・アートとしても機能しているのである。小林が制作に取り掛かる以前、崎山キャンパス開設後しばらくは、この作品とその両隣の2つの温室の周りは背の高い草に覆われ、容易に近づけなかった。そして作品を制作する段になり周囲の草が一掃され、地面がむき出しになり、辺りの地形が明らかになったのである。つまりこの作品が周囲の地形を明らかにし、旧農業試験場施設の荒廃と、それを覆い隠していた自然の力を記述しているのである。またこの作品は、自らを作品とすることで温室=自身にも言及し、読みかえをおこなっている。最初にも述べたが、温室に入ると暖かい。この気温差によってすでに、温室の内外の差に記述は及んでいる。小林の作品によって鑑賞者は温室へと足を運ぶ。そして鑑賞者は温室の中の作品を見ると同時に、ガラス張りの空間=温室という特殊な場について意識することになる。こうして温室はその特殊性を記述する作品になる。さらに、小林自身がこの作品について「hothouse gallery(温室)での展示と宣言するとき、この読みかえはさらに明らかになる。そのとき温室は温室であることをやめ、ギャラリー(美術館)へと変容しているのである。しかしこの変容、読みかえに破壊的な要素はない。小林が作品として記録した(読みかえた)ことで、ものとしての温室が保存されることになるからだ。それはありていに言えばリサイクルなどのエコ思想とも結び付けられるだろうが、おそらく小林によるニュートラルな記録に依拠するところが大きいだろう。つまり、小林弘幸はあくまではかないもの(記憶)を記録、保存するからだ。そこには破壊的な開拓とは正反対の、消えゆくものへのまなざしを見て取ることもできる。

 また興味深いことだが、このことは沖芸大の崎山キャンパス開設という現象を、端的に説明することにもなっている。つまり小林による温室の整備と作品化が起こした場の記述、読みかえは、沖芸大による農業試験場跡地の整備(開拓といってもよい)のモデルにもなっているのである。農業試験場とはどういう場所だったのか、そしてそれらを沖芸大がどのように作り替えていくのか。この作品は、その縮図としても機能しているようだ。大学という温室の中でも、そして社会の中でさえも、何が残り、何が消えていくのか分からない不確かな状況で、小林の作品は温室とその記憶を確かに記録している。(敬称略)

  

Posted by 居村匠 at 00:16Comments(0)TrackBack(0)展覧会批評

2012年01月28日

小林弘幸 卒業制作

下記要領で、沖縄県立芸術大学の彫刻の院生である小林弘幸さんの作品展示が行われます。
この企画は小林さんの修了制作として、沖芸の卒業修了作品展と同時に開催されます。
崎山キャンパスへの移転で生まれた、温室を使っての展示です。
私自身も作品評を小林さんのパンフレットに載せるという形で、この企画に参加させてもらっています。
なにはともあれ見ないと分からない話ですので、皆様ぜひ足を運んでみてください。
 

小林弘幸のブログhttp://wd-hkobayashii.blogspot.com/

          記

小林弘幸個展「HOTHOUSE HABITANT/winter」
会期:2012年2月11日(土)〜2月15日(水)
10:00〜18:00
会場:沖縄県立芸術大学崎山キャンパス内- hhgallery
アクセス:ゆいレール首里駅より徒歩15分
那覇バス農業試験場前下車より徒歩1分
那覇インター前下車より徒歩5分
  

2011年12月24日

展覧会評vol.4 島田智佳子個展

「没入/反射」
SHIMADA Cicaco second solo exhbition「-NEXT-」展

 島田智佳子個展「-NEXT-」展は2011年12月21日から26日まで、沖縄県立芸術大学付属図書・芸術資料館2階の常設展示室で行われた。島田は現在本学大学院2年次。2011年の最後を飾るにふさわしい力の入った展示だったように思う。
 展示会場は照明が落とされ、うす暗い空間に作品だけがスポットライトをあびて浮かび上がっていた。この会場全体の静謐な雰囲気や瞑想的な作品群は、アメリカ抽象表現主義の画家マーク・ロスコを思わせた。例えば<SKY>ではその深い青、<RAIN>や<WIND>では大気をなすような白に没入し、作品との距離を0に近づけるような見方ができる。どこまで意識の上かは分からないが、雨や風といった不定形なモチーフを選んでいることもこのような鑑賞を助長している。いわば絵に引き込まれる、のである。またスポットライトによるライティングも、会場の余計な情報を捨象しこのような見方を助けている。このライティングには作者の強いこだわりが感じられ一定の効果を挙げているが、同時に2つの物言いがつきそうでもある。1つは作品に相対的に強い光をあてることで一部の作品では画材(雲母)が反射し、画面の輝きで作品が見にくいということである。もう1つは作品に近づくと自分の影が作品にかかり、見にくくなるということである。このような批判の是非はともかく、このような展示方法が必然、作品から一定の距離をとって見ることを要求し、一層瞑想的、黙想的な印象を強めることになっている。さらにこのライティングは、今回の作品展一番の大作<刹那>に対してある効果を付与している。<刹那>は縦1,7m横8mの大作で、油彩の深い青の画面の下半分に霧煙る島影のようなものが描かれている。作品が掛けられている高さからも、本来はある程度離れて鑑賞することを想定していると思われる。もし作品のごく間近で鑑賞しようとした場合、自分の影が青い画面にかかってしまうのである。小作では鑑賞の妨げでしかなかった自分の影が、ここにおいてある効果となる。この時鑑賞者は青い画面に浮かぶ自分の影を見続けることになり、自分の存在を意識せざるを得なくなる。つまり、鑑賞者はこの作品の主題になるのである。瞑想的に作品に没入するがゆえに、絵画面の中の「どこか」へと引き込まれる体験から、絵の中に影が入り込むがゆえの、自身の身体を意識した「いまここ」での体験への転換が起こるのである。もちろんこれは作者のねらいとは大きく異なることだろうが、この作品展示はまったく質の異なる2つの体験を生んでいるのである。この没入、反射という作品と鑑賞者との関係は、多かれ少なかれ今回の展覧会の全ての作品に通じていたようにも思う。それは単なるマチエールのたわむれ以上のものを作品に付与しているのである。
 展覧会全体を通してみるとやや素材実験という感があるが、それは今後の展開への期待とも言い換えられる。版や油画、日本画、立体など多様な表現の広がりをみせる島田が、今後どういった作品を作っていくのか興味深い限りである。(敬称略)


  

Posted by 居村匠 at 09:47Comments(1)TrackBack(0)展覧会批評

2011年08月08日

8月7日 講演会「印象派の誕生 変容する〈自然〉」

 県立博物館・美術館で開催中の企画展、「印象派の誕生 フランス19世紀絵画の流れ」の関連行事として開催された講演会に行ってきました。講師は県立芸術大学で教授をつとめられており、19世紀フランス絵画史を専門とされる浅野晴男先生でした。浅野先生のご専門はセザンヌという印象が強いのですが、今回の講演ではそのセザンヌも絡めながら、印象派の誕生について〈自然〉という観点から講演が行われました。内容としては、1.理想としての自然、2.事実としての自然、3.セザンヌの自然という3本柱の論点で、印象派に至る西洋人の自然観の移り変わりを話されました。講演は時に笑いも交えつつ、印象派の誕生という難しい内容でありながら、平易な言葉で分かりやすく説明がなされていたと思います。
 かくいう私もまだこの展覧会は見ておらず講演会を聞きに行っただけなのですが、面白い展覧会になっていると思うので、お時間のある方は足を運んでみてはいかがでしょうか。展覧会は来月11日まで県立博物館美術館で開催されています。  

2011年07月12日

展覧会評vol.3 池永仁美個展

作品/個性/展覧会
「IKENAGA HITOMI 展~わたしと愉快な仲間たち」について

 「IKENAGA HITOMI 展 ~わたしと愉快な仲間たち」は、沖縄県立芸術大学の絵画専攻4年の池永仁美の個展として、本学付属図書・芸術資料館2階の企画展示室で7月9日から14日まで行われた。本展覧会は学生展としては珍しいことだが、展覧会全体がある程度以上の水準で、ひとつの個性(作家性ではない)のもとで纏められていた。(私は最初にこの展覧会を見たとき、個性的な展示空間に正直頭が痛くなった。)絵画作品に限って言えば、今回の個展の作品には一連の、同じ空気のようなものを感じることができ、そのことだけでまずこの展覧会は見るに値すると私は考える。ここでは本展の池永の絵画作品の特徴と、ぬいぐるみを始めとする立体作品の評価について述べたい。
 本展の池永の作品の一貫した特徴は、筆のタッチを残したり、絵の具を引っかいたりすることで画面に効果を与えている点である。例えば《ゆかいな木》は本展のポストカードに掲載されている作品であるが、中央に生えている木の幹や枝、地面などは、絵の具の表面が粗いまま残されており、引っ掻いたようなあととも相まってクレヨンで描かれたような印象を与える。クレヨンという画材はあからさまに幼稚なものだが、池永の作品の顔のある木や、デフォルメされた動物といった空想的なモチーフは、この表現を上手く作品に取り込んでいる。なかでも《月とわたし》(図1)は、タッチや引っ掻きは激しくない程度に抑えられているが、本展では最も良い作品だと私は考える。月と「わたし」と思しきひとがたが、荒涼とした空間に配置されているだけの単純な構図なのだが、画面の表面の扱いと光沢が作品に独特の温かみを与えおり、最小限の要素が大きな効果を発揮している。他にも《魚の食卓》といった赤、青、黄の3色を主として、食卓を描く挑戦的な作品もあった。また《ベースボールplayer》(図2)は本展で唯一の例外的作品だと言えるかもしれない。野球がモチーフになっていることは画面から分かるのだが、その湾曲し変形した人物像はむしろプリミティブな、壁画のようなものを思い起こさせる。池永が今後、この手法と挑戦的な取り組みをどのように発展させていくのかはとても興味深い点である。
 さて本展で絵画作品と同じくらいに存在感をはなっていたのが立体(作品)(図3)であろう。といってもキャプションのつけられていたものはひとつだけで、あとのものはただ並べておいてあるだけであった。この展示にはいくつか問題があったと思う。まず、足元にモノがあると単純に歩きづらいということ。キャプションがつけられていないと、それが作品なのか分からないということ。そしてそれらが作品だとしたら、その展示は雑多で見にくいものになっていたということである。次にものそのもの(作品)に目を向けると、その造形は恣意的でむしろ不気味な面持ちさえ感じられ、絵画作品に見られる童話的なモチーフとは似ているようでまったく違うものであった。形を捻じ曲げ作り出す欲望、といったら大げさだろうが絵画作品と立体では違う論理が働いているように感じた。この2面性ともいうべき部分が池永の作家としての魅力のようなものに繋がるのかもしれない。(敬称略)
(下写真は参考図版 上から図1、2,3) 

 
 
 
vol.3
  

Posted by 居村匠 at 23:48Comments(0)TrackBack(0)展覧会批評

2011年06月27日

展覧会評vol.2 溝端由香利個展

 
色硝子を通してみる風景
溝端由香利個展「硝子戸の前にて」展について

 溝端由香利個展「硝子戸の前にて」展は、6月22日から28日まで、沖縄県立芸術大学の図書芸術資料館2階、企画展示室にて開催された。溝端はこの展覧会の挨拶文で作品のテーマについて、「生活する中で感覚的に引っかかるようなものを素直に提示」することだと述べている。また作品の制作について「再構築」、「置き換え」るといった表現を使っている。ここでは今回の展覧会での溝端の作品に見られる大きな2つの特徴について述べたい。
 一つは画面の中に現れる鮮やかな色の面である。《屋上》は画面に広がる白い建物と鮮やかな水色に塗られた屋上が対比的に描かれている作品であるが、この作品に見られるように溝端は、風景の一部に意図的に浮いた色を組み込むことでその対比を作品にしている。また《オレンジ色の建物》で明らかなように、溝端は必ずしも形態の確かさやリアリティを追求していない。画面手前に描かれた塀の奥には、オレンジ色の建物らしきものが描かれているが、その形はいびつで本当にはありそうもない。むしろこれはオレンジの塊のように、見る人にたちあらわれてくるように思う。この色の面を風景に組み込むこと、風景に色を埋め込むことが、今回の展覧会の作品の特徴のひとつではないだろうか。このように考えると、《レプリカ》のような一見意味不明な作品にも意味を見出すことができる。画面を上下にわける島のような形態は縦じまの色の帯によって分割されており、画面の手前は海を意味する青色が一部に塗られている。塗りにおいて筆の跡を残していることが色のインパクトを弱めている、色の配列に必然性がなく美しくない等の批判はできるが、間違いなくこれは再構築された風景画なのである。
 もうひとつの特徴は背景を極度に簡略化もしくは消去して、風景を箱庭的に描いている点である。前述の《レプリカ》も画面の上部は絵の具が塗られていないし、《白い建物》なども前景におおきく道と白く塗られた建物が描かれ、背景は淡い緑色の空間に薄く建物の影が見えているだけである。この背景の扱いにより、《白い建物》では建物が強い日差しに溶けていくような、白昼夢的情景を描き出している。日常の中で風景を見るとき、私達はその全体を一度に見ることはできない。自分が視線を向けたその先以外は見えていないのだ。見ているつもりになっているだけである。溝端は作品の中で、自分が「見て」いる場所だけを描いているのだ。しかし同時に背景をほぼ描かないわけなので、どうしても手抜きや未完成といった非難は避けられないように思う。作品全体の中での余白のバランスや扱いは今後の課題ではないだろうか。
 他にもインスタレーション作品《近未来都市》や、コラージュ作品《お金持ちが泊まるホテル》などは、作者の近未来都市への意識が伺える興味深い作品だった。総括的に振り返ってみると、展覧会のタイトル「硝子戸の前にて」というのは、色硝子のようなフィルターをかけて風景を認識する、描くということなのかもしれない。作品全体ではやや狙いや傾向を絞りきれていないような気がしたが、裏を返せば様々な取り組みのあった展覧会だったので、より洗練された次回の作品に期待したい。
(敬称略)
写真は参考図版(上から《レプリカ》油彩、《白い建物》油彩)
 
vol.2
  

Posted by 居村匠 at 13:41Comments(0)TrackBack(0)展覧会批評

2011年06月15日

「マイワールド=アワーワールド」展批評

 「マイワールド=アワーワールド」は沖縄県立芸術大学の図書・芸術資料館の2階常設展示室で2011年6月9日から15日まで行われた。この展覧会は本学のデザイン専攻4年生有志による作品展示で、3年生次の成果展としての色合いが強かったように思う。
 ここでは特に興味深かったいくつかの作品について述べていきたい。まずは仲尾裕美の《まちの構造》である。これはアメリカの建築家ケヴィン・リンチが、都市イメージを視覚的に表すためにイメージを5つに分類したのと同じやり方で、安里駅周辺をマッピングしたものである。調査の成果として、地域のマップと特徴、考察・感想が冊子として展示してあった。地域社会の治安や都市機能の向上という目的はすばらしく、実際にフィールドワークを行った説得力のある資料となっていた。分類の妥当性はここでは問わないが、資料の活用という最も大事な部分がなおざりにされていたように思う。展示されていた冊子には作者(この表現はおかしい)の考察がほとんど書かれておらず、資料の使い道を明確に示せていないことは残念だった。
 次に当真一茂の《Mr.pano》があげられる。これは服を着た紫色の犬らしき動物が、右手でOKサインをつくり立っている針金人形の作品だった。この動物(犬?)の針金人形は、その造形性の高さから会場内でも目を引いた。デフォルメされた人形本体とは対照的に肩章や靴、ベルトといった衣装や小道具はよく作りこまれており、作者のこだわりを感じさせた。この作品のメッセージは人形の右手のOKのサインが示すように肯定である。この単純明快なメッセージと丁寧な造形が見る人を引きつけるのではないだろうか。次作に期待できる作品だった。同様に人形の作品として池上蘭加の《ヤミー》があげられる。この作品は同じ雌型から作ったと思しき3つの人形が別々の色に塗り分けられて並べられているという作品であった。決してかわいいとは言えないが独特の造形はひきつけられるところがあったが、この3つという数と赤、緑、ピンクという色に必然性が感じられなかった。もっとたくさんのバリエーションを見せることで、よりおもしろい作品になったのではないだろうか。
 映像作品《コチュジャン 日本ライブへの道》についても、その存在感から言及せざるを得ない。日本進出を目指す5人組の韓流スターグループ《コチュジャン》という架空の韓流アイドル。その日本ライブ前の数日をドキュメンタリー形式で撮影した実写映像作品という造りになっている。ドキュメンタリーという形式ではあり得ないほどメンバーではない人が写りこんだり、作中で説明不足な点があったり、妖精の存在が話に理不尽さを与えていたりという不満点の指摘はできるが、上映時間が程よいので飽きずに見ることができ、《コチュジャン》のメンバーのエセ韓国語ににやりとすることもできる楽しい作品ではあった。
 喜屋武佑里菜の《卓上衝立》は金属の素材感をいかした良い作品だった。コルセットのようなフォルムの衝立が三連、屏風のようにつながっている本作は、黒塗りの金属で重量感を感じさせつつも、女性のあやしい魅力のようなものを表現していた。巻いてあったリボンに関してはもう少し吟味が必要な気もしたが、作者の造形力の高さは次回以降の作品にも期待できると思う。同じくプロダクトの作品として、塩谷美夏の《Okinawan wood spoon》があげられる。これは沖縄に自生する木を素材にした10数種類のスプーンを作品として展示していた。この取り組み自体はおもしろく、それぞれ色や質の違う木材は視覚的にも一様でない仕上がりになっており、木のぬくもりを感じさせる柔らかな造形は良かった。塩谷の本展覧会の別の作品《朝ごはん》にも言えることだがどの作品も一回りほど小さく作られており、ミニチュア的に見えた。このどこか実用を離れたミニチュア感が、ある種の違和感となっているように思う。(敬称略)

居村匠
  

Posted by 居村匠 at 00:12Comments(0)TrackBack(0)展覧会批評

2011年06月10日

批評特攻はじめます

 このブログは沖芸の芸術学専攻の学生が、主に沖芸で催される展覧会を対象に展覧会批評、作品批評を上げていくブログです。稚拙な文章ではあるでしょうが、このブログを通して自分の考えを表明することで、少しでも多くの沖芸学生や一般の方に美術、芸術について刺激を与えられたらと思います。意見、感想や反論などもお待ちしているので、このブログや本人に直接など、自分の考えを気軽にぶつけてください。  

Posted by 居村匠 at 00:43Comments(1)TrackBack(0)